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あたらしい日々

実は年の瀬にあたらしいカメラを買っていたので、故郷に持ち帰って、正月を迎えた。

 

普段あまりカメラのことを考えないようにしていて、仕事で撮影をする場合を除いて意識の外へ追いやっているので、「あたらしいカメラだ」と思いながら構えるのはひさしぶりの感覚だった。

しかも、メーカーが違う。

フィルムカメラはどこのメーカーだって構わないのだが、デジタル一眼レフカメラは、高校生のときからCanonだった。とくにこれといった理由はなく、写真部に入った私に母親が買い与えてくれたから、ずっと使いつづけていただけ。28歳になってフルサイズを買おうとなった時も、レンズが共有できる点を重視してCanonの60Dを選んだ。

 

そうして、32歳も終わろうという2022年の年の瀬に、SONYのミラーレス一眼レフカメラを中古で買った。イメージセンサーで選んだのかと言われれば、それもわずかにあるが、何より映像の仕事で使えるだろうという期待からだった。最近は写真の依頼と並列して、映像の話も出てくる。フルサイズの重たい60Dでなんとかやってきたが、自慢ではないが私は非力で小柄だ。持ち歩いていろんな映像を撮らなければならない時に、軽量の一眼レフが必要になった。

 

数十年前にはCanonもNikonも、OLYMPUSやPENTAXもそうだろうが、まさかSONYの一眼レフカメラが台頭しているとは思ってもみなかっただろう。現在、Canon・SONY・FUJIFILMの三本柱でデジタルカメラ界隈は回っている気がする。「ムービーも撮れる一眼レフカメラ」への需要の高まりがそうさせているのだろう。

誰もが写真家の時代を通り越して、誰もが映像作家の時代だ。

オートフォーカスが早くて、「ピントが私にすぐ合って」、背景をぼかして被写体を際立たせて、プロっぽい動画を投稿できる道具が現代の人々には必要なのだ。

 

カメラやレンズを見るのは、確かに面白い。面白すぎるからこそ、それは単なる快楽や高揚だから控えなくてはならないと、いつも自制している。

道具以上であってはならない。

しかし、道具によって作品の方向性が左右されてしまうこともある。

 

私が主にフィルムカメラでしか作品制作をしないのは、道具に惑わされないためだった。

使用しているのは昭和生まれの機体ばかりで、液晶部分がない。何かを撮ろうとすれば、シャッター速度と露出をなんとなく決めたあと、ファインダーを覗いてなんとなくピントを合わせるだけだ。

ここの集中力が、あまりにも、私にとって聖域である。

カシャンと落ちるシャッターのゆるい金属の振動が伝わってくる、あの瞬間に、私は生きている喜びを味わう。

 

ただこれもよくよく考えてみれば、道具に惑わされている、単純な快楽のひとつではないかとも思うのだ。

過去にコンパクトデジタルカメラ写真集や、スマートフォンカメラ写真集などを、ZINEで発行してきた。イメージを補足することに道具がどれほど影響を及ぼすか?というものを、自身で確かめてみたかったからだ。

 

カメラが人間に及ぼす影響は確実にある。

しかし、道具に惑わされてはいけないという矜持がある。

そんなことで思い悩んでいるあいだに技術は日進月歩で、カメラが道具として使いやすくなって、誰もが撮るようになっている。

 

あたらしいカメラで、あたらしい日々を撮る。

この気持ちにまずは向き合ってみなくてはならない。