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花おくら

七月を過ぎ、もう今年は夏が終わったように思った。
二〇二一年の日本はまだまだ息詰まる。早く終わってほしい、早く過ぎ去ってほしいと願いながら、なすすべはない。口元を塞ぐ。距離を置く。会わない。触れない。
私たちの、これからもしばらく続く、点々とした生活。

九月に入って、故郷の祖母から電話があった。
一ヶ月に二度くらいは連絡を取るようにしていて、お米や梅干しを送るよと用件だけの時もあれば、日々の出来事をつらつら話す時もある。

祖母の耳は遠い。
私は声質がよくないので、頻繁に聞き返される。それではスムーズに話が進まないため、電話の際は祖母が話すのに任せている。

これは想像でしかないが「孫の話が聞き取れない」というのは、とんでもなく哀しいことではないだろうかと思う。
こんなにも不可逆な、老いていく体を私たちは持っている。命の暮れを思い知らされるような瞬間を、きっと祖母は日々感じながら生きていて、そんな中で私と話しているあいだにさえ向き合わなければならないのだったら話なんてしなくたっていいと思う。

それでも、祖母は話してくれる。

その時は花おくらに蟻がのぼる話をしていた。

おくらには黄色い花が咲き、洗ってそのまま食べることができる。夏に実家へ帰ると、朝に採ってきた花弁が水を張ったボウルに浮いていて、昼ごろに細長く刻まれて食卓に出てくる。私はその淡黄のひと筋を、冷やし素麺のツユに浸して食べるのが好きだった。

花おくらは午前中に収穫するものらしい。夏場は朝五時に摘みにいっていたそうだ。それだけ早く行っても小さな蟻が花弁に入っていたらしく、揺すって落とすのに大変苦労したと話す祖母の声は、明るい。実家で起きた出来事を話す口調はいつも楽しげで、私も嬉しくなる。

それで、話の幕がどこで降りたかというと、秋になったら朝六時に採っても花おくらに蟻が入っていなかったよと。

そんな話を私はあと何度聞けるのだろう。

みじかい相槌をうちながら、私は祖母の話を聞く。
聞き返されないようにシンプルな言葉で、声量を上げて、ゆっくりゆっくり近況を話す。
その電話を切って、私はようやく、秋が来たことがわかった。

ここはもう夏じゃない。
災害時用に買った手回しラジオを窓際に置いて、周波数を合わせる。
終わった夏はもう繰り返されない。

距離を置く。会わない。触れない。
口元を塞ぐ。

なすすべはない。

その声の、わずかな揺らぎを、いつまでも気にしている。